堂島の土地は、蜆川と堂島川との間に挟まれた堂島という砂洲でした。
のちに人口が増加するに至り、天満村といい、その一部には堂島船大工町・堂島裏1丁目・同2丁目・
弥左衛門町・永来太郎兵衛町の五ヵ町を有して天満組に属し、永来太郎兵衛町はのちに永楽町と改めました。
河道修理にともない、新地が生じたので堂島新地と呼び、元禄元年町割がなされて、十六ヵ町となっていきました。
堂島という地名の起源については、聖徳太子が四天王寺を玉造の岸に建立し給うにあたって、 悪風波を動かし、洪水岸を崩し、諸材ことごとく漂流してこの島に着いたので寺の御堂にちなんで 堂島の名が起こったと言われ、その他数多くの説があるといわれています。
この堂島は元禄元年に新地町割ののち、土地繁栄策として茶屋株を許されたので、遊所類似のものとなり、 元禄の中頃には、その堂島新地は遊女町の姿をなし、同十年には米市場もこの新地に移り、 次第に発展し宝永五年の頃には堂島新地全体に散在して遊里をなしていたといいます。
ところが正徳の頃から享保の初めにかけて、次第に蜆川以北の曽根崎新地に移りはじめました。 享保十六年十二月に米仲買に株を許し、ついで両替屋の株もゆるされて、以来純然たる商買の街区とかわり 青楼の大部分はまったく曽根崎新地に移されたもので、安永二年の遊所中に見える中町は、 この堂島新地の中町で、その僅かに残った面影とおもわれます。