堂島新地に変わって繁昌を来した曽根崎新地は、近松巣林子「曽根崎心中」のお初、 「心中二枚絵草紙」のお島をもって宣伝されるところでありました。
天保年代になって、飯盛女付旅籠株を許されたが、さらに旅籠屋を泊茶屋、 抱女を飯焼女と称し、その数を限って公許のものにしました。 その繁栄は隣接する堂島米相場所がお客をもてなすことが多かったのによるであろうが、 泊茶屋の中には新町の揚屋と同じく蔵屋敷における留守居が顧客や両替屋をおもてなし、 顧客や両替屋が留守居を接待した「ふれまい茶屋」も多くあったといいます。
明治以降の堂島は、同四年五月、堂島新地1丁目〜5丁目を堂島浜1丁目〜5丁目と改め 同五年三月町名の分合改称するに際し、堂島裏1丁目をのぞくほかは、ことごとく異動しました。 堂島新地を語るには、今は影も形も無くなった蜆川からいわねばなりません。 蜆川は「心中天網島」で名高く、[その涙が蜆川へ流れたら小春がくんでのみやらうぞ]と 語られる川で、小さな小溝にすぎませんでした。
すなわち鍋島の浜の西手、いまの大江橋の北詰め少し東よりの所に東西に架かった難波小橋であって、 ここから堂島川に分かれ、弓状をなし北に折れて西に流れていました。これが蜆川(曽根崎川)であった、 いまの堂島大橋あたりで、再び堂島川に流入していました。 この蜆川の南川岸、堂島川との間が堂島新地で「曽根崎心中」にいう 「賑はし」の新色里で、曽根崎橋以西梅田橋に至るまでに、細長く続いた新色里でありました。